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仁和寺にんなじと大聖院


西の御室、大聖院

仁和寺歴代の法親王は、皇室の尊信まことにあつく、天皇の護持僧として、また皇室御修法みしゅほう大阿闍梨だいあじゃり及び勅願寺の供養導師として、総法務の宮に任ぜられ、一品(親王の階位で最高の位)に叙せられるのを例規とされたのであります。

法流宜布のため、第二十世任助法親王(厳島御室)が、厳島大聖院に御止任せられたのでありますが、仁和寺塔頭に大聖院があったため、特に厳島大聖院を法流相伝の御室に充てられたものと思われます。

以来「西の御室」と称せられるもむべなるかなであります。

また、当院の本堂は鳥羽天皇の勅命によって建立された勅願の道場であり仁和寺第五世覚性法親王は鳥羽天皇の第五皇子にあらせられるのであります。

かく思いますと、仁和寺と当院は、単に本山と末寺という結びつき以前に、「脇門跡」、「仁和寺院室」、「西の御室」などの称号を賜った特別深い関係があり、御室派きっての格式を有する大本山であります。


密接な関わりを持ってきた大聖院

厳島神社の御創建は、社伝によれば推古天皇御即位元年とされ、仏教の道場の創建は大同元年、唐より帰朝の途次、弥山に於て求聞持ぐもんじの修法を行った弘法大師によるものですが、これこそ全山うっそうたる樹木におおわれ、かつ山上には巨岩が重層をなしている形状があってこそのことと思われます。

平安時代末期になって、厳島大明神を一門の守護神として尊崇した平清盛との関係が出来て以来、特に顕著になったのが、厳島神主と同時に、大聖院座主の名が諸書に見えるようになったことであります。

治承四年三月に行なわれた高倉上皇の御社参のことを記した土御門つちみかど内大臣源通親みなもとのみちちか公の「高倉院厳島御幸記」の記事には、大聖院が厳島神杜の別当寺といわれる所以を示しています。

また現在、厳島神社の行事として行われている玉取延年祭(旧暦七月十八日)や、大晦日の鎮火祭は、大聖院から始ったもので、神仏習合の密接な関係にあることが窮われます


出典/大聖院, 2013 宮島弥山大本山大聖院, 第一美術印刷・協力/大聖院