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大聖院の歴史


宮島大聖院と申せば、我が高祖弘法大師こうぼうだいしが霊峰弥山におかれ求聞持法ぐもんじほうを修された霊跡であるということは、あまりにも有名であり以来道俗信仰の霊場として世に知られるところであります。

さてこの大聖院は、真言宗御室派しんごんしゅうおむろは仁和寺にんなじの末寺であって本山である仁和寺は、応仁の乱で焼失する以前その境内に四十九の塔頭が甍を並べ、正しく一大伽藍を有しておりました。

その四十九院の中に大聖院の名が見られ察するところ院家として宮島に大聖院の寺名を賜ったものと思われます。

宮島大聖院は皇室との縁が深く、その庇護を受けることしばしば又仁和寺第廿世門跡であられた御法名を任助と申しあげる厳島御室(伏見宮貞敦親王第四御子)は天正年間数年に亘って宮島大聖院に御室を制せられこの地で甍去されており対岸御室山に御陵墓があります。仁和寺にとっても殊のほか因縁を深くします。

秀吉と大聖院

本尊波切不動明王は豊臣秀吉公の護身仏で、軍船宝丸に安置して海上の安全と勝を祈願した尊像です。

秀吉は天正十五年三月十八日に厳島神社に参拝して毎月一度、千部経を読誦するを発願して大経堂の建立を安国寺恵瓊に命じましたが慶長三年(五九八)に死去ため未完成のまま今日に及んでいます。

畳が千枚敷かれるというので千畳閣と呼ばれています。

平家一族や秀吉をはじめ多くの武将たちは厳島神社に参拝したのち大聖院に詣で殿においてしばしば歌会を催し、その歌社に奉納していますが戦国の世でも武士はみやびな歌心を持っていたものであります。

特に秀吉は護身仏が祀られている当院の庭園を好み天正十八年八月二十五日には盛大な歌会を催しています。古書に「大聖院は、林泉閑雅にして、頗る丘壑の情を養へり。豊臣関白御参詣のときも、和歌の御会ありき」と記し、三十六人の歌が載せてあります。

この時、秀吉が詠んだ歌が

ききしより ながめにあかね いつくしま
見せばやと思う 雲のうえびと(松)

であります。秀吉が好んで賞でた庭園は境内の一隅に桃山時代の面影を残しており参拝者の心に静かな安らぎを与えています。


出典/大聖院, 2013 宮島弥山大本山大聖院, 第一美術印刷・協力/大聖院