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嚴島神社の歴史


嚴島神社の起源

厳島は、本州と四国に挟まれた瀬戸内海西部の多島海のうちにあって、標高 530mとひときわ高い瀰山みせんを擁し、その山容のために古来より信仰の対象として周辺の人々が崇めてきた神の島である。

古くは瀰山を中心とする島全体をご神体とし、それを遥か離れた場所から拝むことから信仰が始まり、次第に島の水際にも社殿が形成されていったものと考えられる。神社の創建は 593年(推古元) と伝えるが、はっきりと歴史の舞台に登場するのは811 年(弘仁2) 以降で、「日本後記」に「伊都岐嶋神」が名神に列せられ、皇室から幣が奉られるようになったことなどを記す。以来、平安時代を通じて、安芸の国の著名な神社として知られるようになる。

平清盛による造営と、その後の造営

厳島にいつごろから社殿の建築が始まったかについては全く不明であるが、1168年(仁安3) 、神主である佐伯景弘が社殿の造営を行ったことを朝廷に報告している文書がある。そのなかで景弘は、今回の造営では神殿などの建物の規模を大きくし、板葺の建築物の一部を檜皮葺に改めたとしている。この造営が当時の権力者である平清盛の後援を受けて行われたことは間違いなく、また、その後の嚴島神社の社殿規模や配置の基準となったものと考えられる。

清盛は、保元・平治の乱における戦功とその後の中央政界における昇進を嚴島神社の信仰の賜物と理解し、神社を平家一門の守護神として位置づけ、益々崇敬を深めた。彼は、彼の生涯における政治的な節目には必ずと言ってよいほど神社に参詣している。

このとき造営された社殿は、鎌倉時代に入り、1207年(建永2) に火災で炎上し、8年後の1215年(建保3) に再興されるが、1223年(貞応2) に再び焼失する。その再興はやや遅れ、1241年(仁治2)に至ってようやく竣工した。
現在残る主要殿舎はこのときに造営されたものである。


社殿が大規模壮麗になったことにより、神社全体を一時期に造替することは困難となったようで、この後は部分的な補修や建て替えにより社殿の維持が図られるようになる。それでも、鎌倉時代には幕府の庇護があったが、室町時代になると前代のような国家的援助はなくなる。元来、嚴島神社は海上に建つという立地条件から、しばしば風水害を受けたが、時々の権力者や在地の有力者の崇敬を集め、その都度復旧されている。そればかりでなく、従来の社殿以外に新たな建造物も付け加えられ、社頭景観が形成されていった。すなわち、1407年(応永14)に五重塔が建立されたのをはじめ、1523年(大永3) には多宝塔、1556年(弘治2) には摂社天神社本殿が建設された。桃山時代に入ってからも、1587年(天正15)に末社豊国神社本殿(千畳閣)が新たに造営された。

社殿の修造では、末社荒胡子神社本殿が1441年(嘉吉元) 、摂社大元神社本殿が1523年(大永3) に建て直され、本社本殿は1569年(永禄12)に起きた流血事件により本社社頭が汚されたとして、1571年(元亀2) に再建された。

また、摂社客神社は1430年(永享2)から1433年(永享5) にかけて改修された。

大鳥居はしばしば倒壊したことが記録に見え、1547年(天文16)の再興に際して現状のように控え柱をもつ形式に改められた。その後も何度かの造替があるが、最後は1850年(嘉永3) に大風で破損した後、1875年(明治8) に再興したのが現在の大鳥居である。

厳島の庶民化

厳島は瀬戸内海の商業・交通にとって要地を占めるところから、室町時代後期にはすでに、島内で市が立つようになり、市街地も発達していた。嚴島神社は各時代の権力者から崇敬を受けてきたが、近世になると空海が開いたとされる瀰山山頂付近の寺院も民間の信仰を集め、参詣する民衆の往来が頻繁となった。参詣の人々とともに当代一流の役者が島内の行事に出演するなど、都会からの洗練された文化ももたらされた。

こうして古代の御神体としての神聖な島から、一般民衆も参詣する開放的な信仰の島へと徐々に脱皮していったと考えられる。庶民による厳島詣が盛んになるにつれ、瀰山の山腹を背景として、海岸から海上へと展開する嚴島神社社頭の景観は、わが国でも出色の景勝地として評判をとるほどの名所となり、すでに江戸時代中期には日本三景のひとつとして賞賛されるようになっていた。


出典/出典/日本国政府, 文化庁, 環境庁 1995 世界遺産一覧表記載推薦書・協力/厳島神社